自然の発露。

ほんとはただそれだけなのに。

誰かがいいねと言ってくれると、
今度はそれに応えたくなる。

私は触媒。

ほんとはただそれだけなのに。

褒められたことが
あんまり気持ちがよかったから、
今度は自分で生み出そうとしてしまう。

一度手にした賞賛を、
二度とは手放したくないからね。

うん、うん、うん、うん、唸りながら、
何とか期待に応えようとしてしまう。

ほんとは期待なんて、
気のせいにすぎないのに、
一生懸命応えようとしてしまう。

だけどそんな私には、
もはや自然の発露はやってこない。

不自然な私に自然の発露は、
ついぞ訪れることはない。

だってそうじゃないか。

賞賛を得たいと思った瞬間に、
私の心はぱさぱさぱさと、
乾いてしまっていたのだから。


※タイトルならびに本文内容は、2018年1月3日に掲載したものです。
 自戒を込めて、再掲載させていただきました。

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by m-kumatta | 2018-08-15 16:51 | 過去もの | Comments(0)

※2014年ノートより。
久々の過去ものです。

当時思い悩むことがあって、
その際にいろいろと考えたことを、
箇条書きに近い形でまとめました。

かなりの長文になります。

お時間のある際に読んでいただけると幸いです。


『あの人はなぜあんなにも我が強いのか?』


あなたは会ったことがないだろうか?


どう考えてもおかしいと思うような言動や行動を繰り返す人に。


私はある。


だからといって。


その人を一方的に悪だと決めつけるのはフェアではないと思うので、

どうして私がそう感じるのかをここで考察してみたいと思う。


まず。


どうしてその人は(私から見て)そんなにも愚かな言動や行動をするのだろうか?


多くの人から批判されるような、

どう考えても常識のない言動・行動をするのだろうか?


不思議なことに。


当の本人はそれが愚かだとは、おかしいとは一切思ってないようだ。


だから余計に腹立たしいし、

場合によっては自らの行動や言動に対して得意満面でいたりする。


なぜだろう………?


それは、その人の脳は、そうすることにこそ“正当性”があると認識しているからだ。


正当性とは?


そうすることが私の目的を満たしてくれると信じて疑わない、強烈な“思い込み”のことだ。


そう。


その強烈な思い込みがあることによって、

(その言動・行動が)周りにどう思われているかはまったく見えなくなってしまい、

その人はきっとそれをせずにはいられなくなってしまうのだ。


具体的には、

・とにかく言いたい、そうしたいという思いに衝き動かされている(操られた)状態。

・言うこと、することを我慢できない状態。

・自分で自分を冷静に(客観的に)見つめられない状態 だと推察される。


では、なぜそんな状態になってしまうのか?


私たちを衝き動かす“強い目的”の正体とはなんだろうか?


おおよそ人が(利己的に)行為するとき、その裏に隠されている真意とは……

『(この危険にあふれた世界で)自らの安全を“常に”確保したい』

という思いではなかろうか?


この強烈な思いが、人対人(人間関係)のシチュエーションにおいては、

たびたび“過剰な自己主張”として発揮される。


なぜなら最も大切なのは、

“自らの必要性”を相手に(世の中に)認めさせることなのだから。


自らが相手にとって(世の中にとって)の“重要人物”になってしまえば、

決して虐げられることも、はじき出されることも、抹殺されることもない。


よって、私の安全は確保されるという寸法である。


ここで、ちょっと辛いけれど、直視しなくてはいけない事実がある。


上記のような思いは“頭のおかしい誰か”に特有な現象なのではなく、

間違いなく私自身の中にも確実に存在するということを、私たちは認めなくてはならない。


誰かにとって、世界にとって、“重要な人物”になること。 


これは間違いなく私(自我)にとっての“最重要課題”だ。


ただ違うのは、その“表現の仕方”だけなのだ。


自分のすごさ、素晴らしさを声高に主張して、ごり押しすること。

これを『左はじ』とするなら、


自分を極力出さずに、相手に心地よくなってもらい、

逆説的ではあるが、結果として欠かせない人物となること。

これは『右はじ』と言えるだろう。


目的はどちらも一緒。

“自らの安全”を、居場所を確保することなのだ。


たいていの人はその狭間で揺れ動いている。


時と場合によって、

様々な立ち位置を“臨機応変(日和見的?)”にとっている。


ただ、中にはそのやり方が極端に偏っている人たちがいる。


そして、自分の価値観、すなわち“自らの立ち回り方”と大きく外れた人や物事に、

私たちは強く反応(嫌悪や怒り、逆に憧れであったり……)してしまうのだ。


それでは。


誰ひとり例外なく自我がある以上、

こうした軋轢、衝突は甘んじて受け入れなくてはいけない、仕方のないことなのか?


もう一度私たちの行為に隠された真意を確認してみよう。


私(自我)を起点とした行為の根っこにあるのは、

“私はいつでも安全を確保したい。いつでも安心していたい。”という強い欲求だ。


それは逆を返せば。

“この世界はとても怖いところだ。

自分は常に危険にさらさられていて、うかうかしていると抹殺されてしまう”

と言っているのと同じことだ。


この世界は危ないところ……危ないところ……。


そう。

ここに、『逆転の種』が転がっている。


ここで、危ないを → 安全に 置き換えてみる。

『この世界は完璧な安全と安心に満ち溢れている』


さて、どうだろうか?


そうなったとき、あなたに何か言うべきこと、やるべきことはあるだろうか?


そうなのだ。


すでに保証されている安心・安全に対しては、

過度な主張も、狡猾な策略もまったく意味を成さなくなるのだ。


むしろ、“何かをする”ことは、

今ある安全を逆に破壊してしまう危険性を高めることになってしまう。


そう。

私(自我)の行為が事態を悪化させるとわかってしまったら。


そのとき人は沈黙する……。


いや、沈黙するしかなくなる……。


行為の消失。


それは(行為に対する)反応(怒り、嫌悪等)の消失でもある。

それこそが奇跡と呼ばれる転換……なのかもしれない。


では、どうすれば“転換”が起こるのか?


今の私にはその『方法』はわからない。


だがどんな人でも、深い深い安心感に満たされたなら。

すぐにでも“静かになる”のは紛れもない事実であると、私はそう思うのだ

※文章も粗く、終始断定口調なのも気になりますが。
 今の自分にもなるほどと思えるものでしたので、
 原文ままで掲載させていただきました。

 最後までお付き合いいただいた皆様、
 貴重なお時間を割いていただき、誠にありがとうございました。





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by m-kumatta | 2018-07-27 23:29 | 過去もの | Comments(5)

※2014年のノートより。

ちょうど4年前。サッカーのワールドカップ開催中に書いたものです。

かなりの長文になっておりますので、
お時間のある際にお読みいただけると幸いです。

サッカーをテーマにはしておりますが、
おそらく誰にでも楽しめる内容にはなっているとは思います。


『しなやかに、柔軟に。~極私的蹴球論~』


突然ですが、

あなたはお祭りと戦い、どっちが好きですか?


私は断然、お祭りが好きです。


戦いという言葉からは、身の縮こまる緊張感を感じますが、

お祭りと聞くと、どきどき、わくわく、弾むような思いがしてきます。


翻って、

ワールドカップは戦いでしょうか? お祭りでしょうか?


もちろん、サッカーが勝敗を決めるスポーツである以上、

“戦い”という側面は否めないでしょう。


でも、それと同時にワールドカップには、

私たちのサッカーを披露する、博覧会のような、

“お祭り”の要素も多分に含まれていると思います。


そんなワールドカップという場で、

今回、“完敗”を喫した我らが日本代表……

……みんな懸命に、何とかしようとしていたとは思います……


でも、その一方で、

そのプレーからは躍動感をほとんど感じることができなかった……


その姿は、

“真剣に戦うことばかりに気を取られ、

楽しむことをすっかり忘れてしまった”ように私には見えました。


結果が出てないのだから、

思い通りにいっていないのだから、

そんな状況で楽しめるわけがない! ………ですか?


果たして、本当にそうでしょうか?

それって、ほんとにそうでしょうか?


だとしたら、

優勝したチーム以外は本当の意味では楽しめないはず。

いや、思い通りという点では、優勝チームですら怪しい。


行為の結果(良し悪し)を判断の材料とするなら、

究極的には、全員がルーザー(敗者)となる運命……なのではないでしょうか。


“勝者なき世界”


結果を出すことや、自分たちのやり方を貫くことを至上命題とするあまり、

そんな荒涼とした場所に、

今回の日本代表は自ら身を置いてしまったのではないでしょうか?


結果を求めることが悪いとは言いません。

問題は“結果に縛られてしまう”こと。


世界には数多のスポーツがありますが、

サッカーって、その中でも特に“ままならない”スポーツだと思うんです。


だって、人間が作業をするのに最も適した、「手」を使わないんですよ。

その時点で相当ままならない。


その上、行く手を阻む相手がいて、

その両者が相手の裏をかこうと激しく動き回る。


状況は瞬間、瞬間でめまぐるしく変化し、

その度に何らかの決断を迫られる。


さらにさらに、チーム内の人間関係や個々人のコンディション、

ピッチ、試合環境に至るまで、あらゆることが微妙に影響してくる……


こんなの、全て管理しようとする方がどだい無理な話です。


どんなに追求しても。

どんなに備えても。

いつだって結果はままならない。


だとしたら……。


より良いサッカーをするためには、

技術、体力、緻密な戦略が重要なのは確かです。


でも、それもこれも。

次々に起こるアクシデントや想定外を受け入れる、

柔軟でしなやかな心がその土台にあってこそだと思うのです。

硬くて強いものほど、実は折れやすいのではないでしょうか?


それは理想や主義または目標といった、

意志や思考にも言えること。


そして、

時々刻々と変わる状況や

独自に心や思考を持つ相手(他者)を、

自分たち(私)の理想(都合)でコントロールしようとするなら、

これほど傲慢なことはないんじゃないか……と思います。


一方、しなやかな心は支配しません。

相手や状況を受け入れながら、自分も表現する。


相手も生きて、自分も生きる。

これこそが巷でよく言われる、リスペクトの原点だと思うのです。


…… いやあ、ちょっと熱くなってしまいました。

お恥ずかしい限りです。

だけど、もう少しだけお付き合いください。


このお話の始めに私は、

お祭りと戦いのどちらが好きですか?という問いかけをさせていただきました。


そう。


柔軟でしなやかな心は、

戦いという強さの追求からは決して生まれない……と、私は考えます。

それはお祭り心、すなわち何かを純粋に楽しむ心にこそきっと宿ります。


~サッカーは人生そのものだ~ 

よく聞く言葉です。


「楽しんで、(己に)勝つ」

「まじめにあそぶ」


サッカーの本質がそうであるように、

人生においてもそうあれたらいいなと思う今日この頃です。


※時は流れて、2018年。 また、ワールドカップが始まります。
 
 さてさて日本代表は、世界の国々は、
 いったいどんなプレーを魅せてくれるのでしょうか?

※最後までお付き合いいただいた皆様、誠にありがとうございました。

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by m-kumatta | 2018-06-14 07:52 | 過去もの | Comments(0)

2015年5月に書いたものです。

当時、私はこんなことを考えてたみたいです。



~理解すること。響き合うこと。~

・私たちは『相手を理解する』ことができれば、平和が訪れる。 そう信じている。


・果たしてそれは本当だろうか?


・『相手を理解する』ことを定義すると。

『自身の知識や経験に照らし、相手の行為や在り方を“私”が納得できる形で把握する』

ということになるだろう。


・ということは。

『理解』がその人の持つ常識や解釈の範囲内を逸脱することは、

決してありえないということになる。

仮に逸脱してしまえば、それは『理解ができない』ということになる。


・要するに『相手を理解する』とは、一見相手を思いやっているようにみえて、

 その実、相手を自身の枠内に当てはめてしまおうという、

 100%自己都合から生じている行為なのだ。


・相手を『理解』によって定義できれば、何かあっても対処ができるし、

 場合によっては、相手をコントロールすることもできる。

そうすれば私は不用意に傷つかずに済む。


・そう。『相手を理解したい』という欲求の本質は自己防衛に他ならないのだ。


・その証拠に。 人は理解できないものを異常に嫌悪する。

 なぜなら未知のものは、私の安全を脅かす可能性がかなり高いと感じられるからである。


・さて。

 そんな自己防衛から発される、

『相手を理解しようとする』行為が、本当に平和をもたらすだろうか?


・場合によっては。

 お互いがお互いに『理解』というレッテルを貼り付け合い、

 それ以上は深入りをしないという、いわゆる冷戦状態のような、

消極的な平和が達成されることはあるかもしれない。


・しかしながら、こうした消極的平和状態は、

 お互いの許容範囲(解釈可能な範囲)に依存しているという性質上、

状況が変わって、どちらかが相手を『理解不能』と判断した途端、

あっという間に機能不全に陥ってしまうという危険性をはらんでいる。


・そう。『理解』に根差した対象の容認は、

何らかのきっかけで容易に『理解不能』という嫌悪に転じてしまうのである。


・『平和を達成するため』に用いた、『相手とわかり合おう』とする行為が、

結果的に『憎しみ』という平和とは真逆のものを連れてきている……

 まずはこの矛盾にはっきりと気づかねばならない。


・では平和を達成するために。 私たちには、なすすべがないのか?

 

・いや。 私の、あなたの、そして世界の平和を達成するために。

 あなたにはとても大きな使命がある。


・あなたに課されたとてもとても大きな使命。

それは『共に響き合う』ということである。


・『響き合うこと』

それは『理解すること』といったい何が違うのか?


・『理解する』というのは。

前述の通り、相手を自身の枠内に押し込める行為である。


・よって、お互いが『理解し、わかり合う』ためには。

 多少なりとも双方の特性を『殺し合う』ことが必要だ。

 いわゆる譲り合い、擦り合わせ、調整といったものである。


・一方で。

『響き合う』のは、双方の特性を『生かし合う』ことに他ならない。


・お互いに物足りない所は補い、良い所はさらに増幅し、そうやって貢献し合う。

『響き合い』の本質はその相乗効果にある。


・大切なのは、『私はあなたに勝ってはいけないし、負けてもいけない』ということ。

 そこに、共鳴の鍵はある。


・音楽に例えるなら。

 あなたと私の関わり合いは、デュエット・アンサンブルである。


・より良いアンサンブルを奏でるためには。

 お互いが自らのパート(受け持ち)をまっとうすることが絶対条件である。


・そうすることで共鳴が起こり、

それぞれが単独では成しえなかった音楽が創造される。


・『理解し合う』ことが、二つの音を調整して、一つの音にまとめようとすることなら、

『響き合う』ことは、二つの音を重ねて、新たな音楽を創りだすことを目指すものだ。

 

・よって、『響き合い』の世界では。

 相手を高圧的に抑えつけてはいけないのと同様に、

 相手ばかりを立てる『自己犠牲』も絶対にしてはいけないのである。


・なぜなら。

 あなたが自らを表現しないことは、アンサンブルの崩壊を招き、

 自分の音はおろか、相手の音まで『殺してしまう』ことになるからである。

 あなたが犯した『表現の放棄』はもはや『自己責任』の範疇に留まらないのだ。


・これは考えようによっては、『理解し合う』ことよりもはるかに高い壁である。


・ただ、もしもあなたがその高い壁を乗り越えることができたなら。

 

・その時には『あなたの理解をはるかに超えた』展開が巻き起こることは間違いない。


・あなたと私。 それぞれがパートをまっとうしアンサンブルを形成する。

 これだけでも素晴らしい『響き』だが、その音楽はそこだけに留まらない。


・あなたと私が共鳴して創り上げた音楽が、

 今度はより大きなコミュニティで演奏される音楽のパートとなるのである。


・そうやってあなたから始まった音は重層的に重なり合い、

やがて『世界』という壮大な協奏曲を形成する。


・だから。

あなたに課された使命はとても大きく、その責任は重大だ。


・だが、心配しなくていい。

 あなたがすべきことはとてもシンプルだ。


・あなたがすべきこと。

 それは、目の前の物・事・人と『共に響き合おう』と意図して、

 世界を恐れず、自身が持つ音を『表現する』、ほんの少しの勇気を持つこと。

 ただそれだけだ。


・あとはそれこそ『自動的』に。

世界というオーケストラの素晴らしい演奏が展開されることになる。


・そしてあなたはそれを存分に味わい、楽しむだろう。


・さあ、世界と共に。 

響き合おう。




※自分たちには理解できない = 頭のおかしいやつ っていう図式が、

 なんだか大手を振って歩いているような昨今。

 その短絡的で尖鋭的な風潮に、私はどうしてもしり込みしてしまうのです。



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by m-kumatta | 2017-09-24 15:19 | 過去もの | Comments(0)